今日は南風にフェーン現象も重なって全道各地で25度を超え夏日になったとか。中標津はそこまでいかなかったようですが、それでも乾いた暖かい風がやや強めに吹いて暑さを感じました。4月中にこの様な高温になるのは久しぶりということですが、昨年も5月下旬に30度を超える美が続きましたが、今年の気温は高めで桜も早く咲いているところを見ると、原因はともかく温暖化に向かっていることは間違いなさそうです。
月: 2018年4月
昭和の日
昭和天皇の誕生日ですが、崩御されてから一旦「みどりの日」になりその後「昭和の日に」なった祝日です。明治天皇の誕生日は11月3日「文化の日」になっています。戦争に突っ走り、敗戦後奇跡のように復興を成し遂げ、高度経済成長と言われる昭和の時代の中で私は育ち社会人になりました。時代は平成に変わって経済成長は頂点を過ぎ少子高齢化の時代で、何となく閉塞感に覆われています。さて、平成天皇誕生日は何の日に変わって次はどんな時代になるのだろう?
PM2.5
この季節のお馴染みPM2.5が出現し、天気の良いのに空も景色も全体としてかすんでいます。先日鹿児島から東京と旅行した際にもこのような現象がありましたが、こちらは中国大陸からの考査の影響のようでしたが、今回のものはロシアシベリアの大規模な山火事によるものということで、大陸の影響を受けるのは何も大国の力によるごり押しだけではないようです。環境のことを考えても早く収束して欲しいものです。
北特法改正
北方領土隣接地域振興基金の運用益が当初計画の10分の一ほどしか得られなくなったため、その基金を取り崩すことも含めた「北方領土隣接地域振興特別措置法」改正に向けて自民党本部北方調査会で検討が進められていますが、その要点が明らかになってきました。一つは基金取り崩しについて、次は共同経済活動について、3点目は財政上の配慮についてどのような方法でどのように記述していくかということのようです。このことについて連立政権の公明党にも説明しておいてほしいとの伊東代議士からの要請で、今日公明党北海道の森幹事長に説明をしてきました。経過についてはよく理解してくれているので今後とも折に触れて協議しながら進めたいと思っています。
鉄道PT
自民党本部の鉄道プロジェクトチームの会合が開かれ、高橋知事、黒田交通企画監、会派の吉田鉄道調査会副会長、三好事務局次長とともに出席して昨年来の議会議論と総合交通指針への反映状況について発言してきました。鉄道PTに出席した各国会議員からは、観光や物流面での鉄道の役割について理解した発言とともに、国の支援を得るにはもっと具体的な数字を盛り込み、その必要性などを強調できる計画にしていくべきとの意見もありました。今後JR北海道の経営改善計画作成を急ぐとともに、国や地方の役割など詰めの協議が必要と感じています。
国会は地方議会以下か?
今日も国会批判です。一体国会とはどういうところなのでしょう。国民の信託を得て当選し国民の生活について責任を持つはずの国会が、いったい何時まで確定していない週刊誌かワイドショーネタで審議もしないで騒ぎ立てているのか、野党の審議拒否は国民の生活をないがしろにとにかく安倍内閣の足元をすくって自分たちが浮き上がろうとする政局そのものの動きにしか見えない。こんなことで国が運営できるのだろうか?以前政権交代した時のひどさが頷ける。地方議会以下です。
海賊版
新聞紙上でNTTが漫画の海賊版サイトを遮断することについて「憲法違反の疑いがる」と憲法学者が異論を唱えていると報じられています。憲法学者は常に憲法の番人を自負しており、その学説的判断が憲法を守って法治国家の基盤を維持することは認めるにしても、こうした異論の前に著作権を冒すという行為に対してもっと声を強くしてその違法行為に対する方法を提示すべきではなかったかと思う。法整備がないままと非難するのであれば、その整備を提言するのが先ではないだろうか。何でも自由を侵害するというのであれば、著作権や産地表示、商標登録などを守るために何をするべきかも提示してもらいたいものだ。
人口減少と医療
3月に公表された人口研の予測は予想されていることとは言えショッキングなものでした。2045年までにどのようなことをして人口減少を防ぐか、避けられないものとすればそこに向かってどのように備えていくかなどの方策を早く立てていかなければならないと思います。特に医療については、対象となる人達の減少で経営が成り立たなくなり、医師確保もできなくなって医療の後退がさらに人口減少を加速することになりかねないことを深刻に捉えなければならないと思います。
中標津武佐会
中標津市街地に住む武佐出身者の集まりである「中標津武佐会」の春の懇親会に出席しました。中標津町では明治45年(大正1年)に俵橋地区に最初の入植者が入ったのを皮切りに、翌2年には武佐地区その後順次奥の方(海側の標津から見て)へと開拓が進んでいきましたが、開拓の初期は武佐地区に商業や製造(みそ・しょうゆ)酪農の牛乳集乳所などが集積し、根室内陸一の賑わいを誇っていました。その後鉄道の施設によって中標津がその拠点となったことから人口が移動し今の市街地が発展し、反対に武佐市街は衰退していきました。そうしたことから中標津市街地の主要な産業、人材などは当初はほとんどが武佐の出身者で占められていて、50年以上前に武佐会が結成されたものです。今は無くなった武佐小学校のことを懐かしく思い出しながらの懇親会でした。
後継者の結婚
久しぶりに別海町の農業後継者の結婚式に出席しお祝いを述べました。農業の担い手は必ずしも農家の子息である必要はないのですが、やはり生まれ育った環境の中で親のしてきたことを見聞き体験してきた子供が、その良さを理解して跡を継いでくれるのが一番で、そのパートナーを得られたことはその家庭にとってだけでなく地域にとっても私たち仲間にとってもとても嬉しいことです。